日本の旬・魚のお話

お問い合せ先
サンマ
サンマ
係  
部・課 企画管理部
主要扱い品目  
担当者  
TEL  
FAX  

日本の旬・魚のお話
日本の旬   魚のお話(秋の魚-3)
秋刀魚(さんま)
昔から食卓にサンマがのぼる季節になると、夏ばてや肩凝り、腰痛が治ると言われている。また、サンマには頭の良くなるDHA(ドコサヘキサエン酸)や動脈硬化を防ぐと言われるEPA(エイコサペンタエン)がイワシやサバに次いで多く含まれている。
さらに、目の劣化予防に効くビタミンEや、風邪の予防に効くビタミンA、貧血予防のビタミンB12なども豊富にあり、これにビタミンCのレモンと大根おろしを添えれば栄養満点である。

                  秋刀魚焼く 煙の中の 妻を見に         山口  誓子
命名
『本朝食鑑』には「乃宇羅畿(のいらぎ)」、『和漢三才図会』には「佐伊羅(さいら)」、『浮世床』には「鯵(さんま)」、『日本産物誌』には「青串魚(さんま)」など、さまざまに呼ばれている。
また、大漁祈願の供物「祭漁(さいら)」から転じたという説や、魚体が狭く長い為、「狭直魚(さんま)」からとする説もある。
江戸時代から明治かけては「三馬」の字を使っており、夏目漱石の『吾輩は猫である』(明治39年発表)の中にも見られる。現在の「秋刀魚」の字が使われる様になったのは、明治の末から大正の始め頃にかけてである。
地方名
カド(三重県・関西・紀州各地・志摩・長崎・土佐・阿波・丹後・鹿児島)
             ・・・・飯の足しにする食べ物を「糅(かつ)・カト」と呼び、大漁にとれる魚を指す言葉。
サイラ(長崎・壱岐)、サイリ(摂津・伊勢・紀州勝浦)、サイレ(紀州各地)、サエロ(紀州三輪崎)、サエラ(紀州和深)、サヨラ(宮津)など ・・・・・・大群集することを「沢苛」という。その沢苛(さわいら)から転訛した。また、古くは「サヒラ」と
                呼んだらしく、「サヒ」は古語で「細く真直ぐなもの」のことから、「細く真直ぐな魚」という意か
                も。
サザ(長崎・五島・壱岐・大村湾・対馬)
             ・・・・細小や狭小の意。細く小さいもの。
バンジョ(新潟、佐渡)・・・「万生」の意。豊漁を祈るもの。
       英名  Pacific saury
分布
サンマは北部太平洋と日本海に分布しているが、他にはニシンサンマが北大西洋、ハシナガサンマは太平洋や大西洋及びインド洋に、太平洋ミニサンマは東部太平洋の赤道海域、大西洋ミニサンマは東部大西洋の赤道海域に分布する。
ダツ目トビウオ亜目サンマ科サンマ属
親戚にサヨリと飛魚がいる。
日本刀を思わせる青い背と銀色の腹は、イワシやアジ、サバなどの浮魚類の知恵から生まれた配色で、空から見れば藍色(あいいろ)の海に溶け、下から見上げると銀色に輝く海面と同一になると言う。
種類も少なく4属しかない。10cm前後の小型2種と大西洋や南太平洋に棲息するハシナガサンマ、そして北太平洋に棲息するサンマである。
北上(索餌)回遊と南下(産卵)回遊
秋から冬にかけて常磐沖で生まれた仔稚魚は、黒潮周辺で越冬した後、冬から春に黒潮や周辺海域で生まれた仔稚魚と共に春から卓越する黒潮に運ばれ、黒潮前線を越えて常磐水域へと運ばれる。
これらは、夏になると主食である動物プランクトンの豊富な北海道から千島沖へと回遊し、急速に成長する。
太平洋に広く分布するサンマは、夏に千島沖に集結し、八月下旬に入ると稼動と産卵のエネルギ-を身に蓄え、脂質が20%以上となった群から日本列島にそって南下を始める。
それが11月末に紀州沖で水揚げされる頃には、身も痩せて脂は5%以下に減り、卵も無いサンマとなる。
産卵は謎
11月頃に相模湾付近で一斉に産卵するという説と、1〜4月に四国や九州沿岸で海に漂うホンダワラなどの流れ藻に沈性卵を産みつけるという説がある。
また、年中稚魚の採取が出来る事から、広い太平洋のどこかで年中産卵する説がある。
卵は2mmくらいの楕円形で、約20本の付着糸を持ち、流れ藻などの浮遊物にブドウ状となって産み付けられ、1回あたり2千粒位を数回産み付ける。受精卵は水温15℃なら2週間ほどで孵化する。
短命
仔魚はすぐ小型の動物性プランクトンなどを捕食し、成長する。つい最近までは一年魚、二年魚、三年魚という言われ方をしていたが、1991年に大部分のサンマは一年しか生きないことが明らかにされた。
現在ではサンマ長期予報には、29〜32cmの大型魚である秋季発生群、24〜29cmの中型魚である冬季発生群、20〜24cmの小型魚である春季発生群で発表されている。
漁法
江戸初期は紀州が本場であった。これは寒流がかなり南下していたことを裏付ける。戦前までは紀州が全国一の生産量を揚げることも多かった。
現在は道東と三陸が本場。 漁獲量は年間27〜30万トン。
棒受網漁は、サンマが光によく集まる習性を利用して夜間に行う漁法である。まず、サンマの魚群を発見したら微速にし、船の右側の集魚灯を点灯し、船の左側に網を入れる。そして、右側の集魚灯を消し、左側の集魚灯を点灯して魚群を網の中に誘導する。群が網の中へ十分誘導されたら網をたぐり寄せ、ポンプで海水ごと汲み上げる。

                   水揚げに 左舷傾く 秋刀魚船       小島 禾汀
サンマのお肌
水温が11℃以下からとれたサンマは焼くと燃え出すと言われ、水温18℃以上になると脂が落ち出し、虫に食われて銀色の肌に染みが出る。これは三陸で獲れたサンマに多く見られる。まさに水温17℃はサンマにとってお肌の曲がり角である。
サンマの胃
鱧(はも)と同じで胃が無く、腸も極端に短いため、絶えず何かを食べていなくてはならない特性がある。体がスマ−トな割には大食漢である。また、養殖はむろん、一年以上飼育に成功した水族館も無い。
サンマを食べだしたのは江戸初期
『本朝食鑑』(1697年)に始めて登場し、『梅翁随筆』によると明和(1764〜72)年間の頃は「いまだ下賎(ゲセン)な魚」として食べなかったらしい。安永改元の1772年の頃にようやく「安くて長きはサンマなり」と書いて売る魚屋が現れ、庶民は食べる様になったが、武士はほとんど食べなかったと言う。江戸時代には下等魚としてマグロ、イワシも同じ仲間であった。
目黒のサンマ
落語「目黒のサンマ」の一席は、殿様が鷹狩りの帰途、目黒の茶屋で舌づづみを打ち、「サンマは目黒に限る」とのたもうた。
この頃は、庶民はサンマを食べ出していたが武士は未だ食べなかったという時代にピッタリと合い、当時としては話題性十分の演題であったことだろう。
この落語は、1798年に三笑亭可楽が下谷で寄席を開いたのが最初とのこと。「目黒のさんま」は1801年の文献にあり、1891年(明治29年)に禽語楼小さんにより、演題として完成したものであるらしい。
サンマ苦いか塩っぱいか
苦味は肝臓中の成分に由来する。新鮮なものは豚や鳥のレバ―を食べたようにトロッとした甘味に似た味がするが、鮮度が落ちてくると苦味の強いアミンが生成されるため。
最近のサンマの肝臓が美味しくない理由は、棒受網漁によって一度に大量に獲るせいで、網の中でウロコがサンマの口の中に入って消化管に溜まってしまい、内臓ごと食べるとウロコが口にあたって美味しくなく感じるのである。
俗諺
サンマが出るとアンマが引っ込む
  ・・・・サンマの出回る秋は気候もよく、サンマを食べて栄養も行き届いているので、庶民の健康は上々。おかげで
     按摩の商売は上がったりになるという意。サンマの血合いに含まれるビタミンB12はレバー並みで、貧血には
     もってこいだし、トリ目を予防する。ビタミンAは牛肉のロースの12倍も含まれている。
サンマ騒がせで豆腐屋上がったり
  ・・・・上記と同様で、安いサンマに客を奪われ商売にならないという意。
秋のサンマは孕み女にみせるな
  ・・・・秋のサンマは脂肪が強すぎて、妊娠した女性にはかえって毒になるという意。
みりん干し
干している間に、タンパク質やアミノ酸との間にアミノカルボニール反応(メイラード反応)を起こしてアメ色に変わる。
このアメ色の物質に脂肪の酸化を防ぐ働きがあり、この為、脂肪含有量が多いサンマを開き干ししても酸化しないのである。
ナメロ
千葉の房州では、とれたてのサンマを「たたき」にする食べ方を「ナメロ」や「ナメロウ」といい、食べたあとは皿までなめたくなるほど旨いそうである。
食べ方
塩焼きが主流のサンマ料理であるが、生、焼き、煮る、揚げるなど、全ての料理が可能であり、水をベースにした日本料理、油をベースにした中国料理、乳をベースにしたフランス料理のいずれにも合う不思議な魚である。

          『秋刀魚の歌』   佐藤春夫   大正10年

                あわれ秋風よ 情あらば伝えてよ
                男ありて 今日の夕餉に ひとり
                サンマを食ひて 思いにふける と
                さんま さんま
                そが上に 青き蜜柑の酸をしたたらせて
                さんまを食ふは その男がふる里のならひなり
                          ・・・・・・・
                ・・・・・・さんま苦いか塩っぱいか・・・

   ※ 佐藤春夫は和歌山の出身である。潮岬でのサンマ漁は3月を中心としたその前後である。紀州沖にくる頃は
     すっかり脂もぬけてバサバサになり、俗に言う麦サンマになってしまっている。地元は昔からサンマの味に舌
     つつみをうったが、佐藤春夫が道東のサンマを味わっていたならば、『サンマの歌』の詩歌の心もまた、変わっ
     ていたことだろう。


ウィンドウを閉じる